有限会社一滴八銭屋 代表取締役 大薮 由一郎氏

有限会社一滴八銭屋<br />
代表取締役 大薮 由一郎氏

『自分達の行きたいお店を造る』をモットーに、兄弟が三位一体となって造り上げた新業態。時代の先読みをしてきた大藪氏にこれまでの苦労や今後の展望をお伺いしました。

—飲食業を始めたきっかけは?—
元々のルーツは、実家が四国で両親がうどん屋を経営しているんです。そこが一番のスタートではあります。しかし就職は建築方面を希望していたため、大学卒業後は大手内装会社に決まっていました。ちなみに、その前に一年間休学して、世界旅行をしていた時期があったんです。これから何をしていこうか。と…。その時に、中学くらいから建築関係に行きたかった気持ちを思い出して、その方面に行こうと決めたことが就職に繋がり、30歳まで7年間はその業界で働いていました。
そして、具体的なきっかけに繋がったのは、7歳下の弟が大学を卒業する年に連絡が来たことですね。弟は商社に就職が決まっていたのですが、その会社を蹴るから、兄貴一緒に何かやろう!と話をもってきたんです。その前から度々一緒にやろうという話はしていたのですが、この時具体化し、直接のきっかけとなりました。じゃあ、自分も区切りの良い30歳の年だし、仕事は楽しいけれども、このままいってしまうと機会を逃しそうだから、背中を押される形で7歳下の弟と義理の弟と3人、思い切ってやってみよう。と決心しました。

—30歳で独立というのは結構勝負だったと思いますが、いかがでしたか?—
今考えれば勝負だったとは思いますが、当時はあんまり怖くなかったんですよ。というのも、独立の気持ちはずっとあったんです。商売の家系ですから、親からも幼い頃から自分の力でやれ。と、その道は推されていたので、元々独立は意識していました。そのため、働いている間は建築関係とか企画で立ち上げられたら。と思っており、会社に勤めきるつもりはなかったんですよ。

—では、なぜそこで飲食業を選ばれたのですか?—
兄弟で始めようとした時点で、すぐに始められることと言ったら、飲食しかなかったんですね。兄弟で見て来た唯一の業界でしたから。もう一点は、建築業界でたくさんの飲食店に携わってきていたのですが、先方の予算やコンセプト等に沿うと、制約がどうしてもあったため、思う様に作れないというジレンマを感じていました。そのため自分達で自分達が行きたくなる様なお店を作りたいという思いが、ずっとあったんです。ただ、当初うどん屋だけは絶対やりたくなかったんですよ。親の辛い姿とかをずっと見ていたし、何よりかっこ悪いと思っていたんですよね。
そこで、もっと格好良いものをと思い、当時、アメリカでブームが来ていたスープに注目して、スープ屋をやりたい。と思ったことがスタートになりました。とにかくスープ!という想いから、上海などで何百種類とあるスープ屋を見て来たりして、色々企画も進めていたのですけれども、友人に話を持って行ったところ、「それはダメだと思うよ。」と言われてしまったんですね(苦笑)。というのも「いつスープって食べるんだ?」という話になって、確かにランチではないし、朝食で食べるには早いんじゃないか。と思ったんです。じゃあ、麺を入れてみよう!と方向転換し、創作うどんというスタイルを作りました。麺を入れればランチでもいけるし、スープもカツオ出汁だけじゃなくて、スープ仕立てで、うどんもこういう食べ方が出来るんだよ。という部分もあわせ技として東京にうどんを拡めていこうじゃないか。というスタートになりました。

—創作うどんにした理由と、オープンしてからの動向をうかがえますか?—
当時、東京にうどん屋はなかったので、まずは東京にうどんを拡めたいという思いがありました。ただ、讃岐うどんをそのまま持ってくる事は、僕らではなくても出来ることですから、讃岐うどんと謳わずに、まずは若い人が来てくれるうどんの専門店を作りたくて「創作うどん」をやることになりました。
オープンしてからは、お客様は来ませんでしたね。うどん屋という認識がまずなくて、2階3階という空中階ということも重なりました。物件選びの条件で、人が多い場所でターゲットがサラリーマン、OLで僕と同世代であること。つまりオフィス街であることだったため、最初は新橋を探していました。しかし、土日の陥落差に7日中2日間も捨てるのか。と驚愕したため、人が集まり始めている西新宿に変更したのです。
この物件を見つけたとき、実は四国で修行中だったのですが、東京でお世話になっていた不動産屋が「西新宿で安くて良い物件出て来たよ。」と連絡をくれたので、飛んできました。当時、西新宿の物件は保証金20ヶ月くらいで何千万円とかかるのが相場だった中、何百万の物件でしたので、これならいけるね。と判断し、その場で契約をしたんです。
これで、うどん屋のオープンに繋がったのですが、東京は「蕎麦・うどん店」が主流でしたから、お客様の中には「蕎麦はないの?」と聞かれる方もいて、ないとなると帰られる方も多々いらっしゃいました。
また、夜の部をうどん居酒屋という形で営業していたのですが、「うどん屋でしょ?なんでうどん屋で呑まなきゃいけないの?」という目があり、それも難しい一面でした。夜の部に関しては、うどん屋が認知され始めた頃でも正直厳しかったです。

—では、損益分岐点を上回るまでには結構時間はかかったのではないですか?—
いや、実はそんなにかかっていないんです。というのも、弟たちと3人、自分たちだけと人件費を抑えていたので、分岐点までは割と早めに越えました。ただ、当初目論んでいた数字よりもお客様が来ないという時期が3ヶ月くらい続きましたね。でも、今考えれば、1店舗目はスムーズでした(笑)。

—店舗数を増やした時の方が時間はかかるものでしたか?また具体的にどのような部分で苦労なさいましたか?—
店舗数を増やす時にはこだわりも出始めたり、人を入れないといけなくなりますし、どんどんランニングコストが必要とされるので1店舗目よりは、やはり大変でしたね。また、最初は2店舗目をどこで開けばいいものなのか、店舗の増やし方そのものもどうすればいいのか、利益分で開くべきなのか、それとも借入で開くべきなのか、ではどうやって借入を行うのか。そういった点、全て分からなかったので苦労はしました。経営の知識が全くなかったため、利益の半分は税金を支払う中、いかに残していくかという部分から悩みましたよ。結果、借入を行ってまたそれを投資して、その投資した分が年利でいくら動くのか。ということを考えていった方が良いと気付くまでが大変でしたね。
また、苦労という部分では、1店舗目の物件を契約した直後にオーナーが倒産していたことを、後から物件差し押さえの書類が届いて知ったんです。とても驚きましたし、新しいオーナーと保証金・家賃の交渉などを再び行わなければならなくなり、別の部分で労力を使ったこともありました。

—30歳で独立してから34歳まで、1店舗目ではずっと3人で現場にいらっしゃいますが、現場へのこだわりや3人ならではのお話はありますか?—
役割分担があったんですよ。僕はコンセプト作りと財務を行い、弟は料理を考案して、義理の弟がうどんを打つという三位一体の形をとりながら、現場は3人で出てホールや厨房をそれぞれ担当。兄弟と言えども、3人とも考え方は異なるので、毎日の様にもめました。例えば、自分達それぞれのお客様がいるので、その自分のお客様への対応が悪かったと言ってもめたりしましたね。そうなると、じゃあもう店に入れないよ。という意見が出たりして、そうじゃないだろ。と(苦笑)。で、きちんと紹介して都度対応するようにしたりと、毎日がケンカでしたけど、溜め込まない分、1つ1つを解決していけました。あとは信頼関係が強いのはありますね。お金の面も含め、互いに信頼はしていますし、そうやってケンカなどしても逃げないことを知っていますから。兄弟で経営すると大変だと聞いてはいましたが、僕らはそうやってケンカをしながらも信頼関係がベースにあったので、逆に助かりました。これが友人だとか共同経営となっていたら、きっと別の形になっていたことと思います。

—3店舗目の三田にある『滴屋』さんは業態が変わりましたが、そのきっかけを教えていただけますか?—
実は、三田のお店は業務委託という形態で始めたんです。というのも2店舗目で4,000万円くらい投資してしまっていたんですね。うどんも盛り上がっている時期でしたし、いけるだろうと踏んでいたのですが、なかなか回収出来なかったので、これを続けていったら問題あるな。ということに気付きました。では、次はあまりお金をかけず、なるべくお金も借りずに出店する方法を考えなければ。と検討しているところに、三田にテナントが空いたから、形状はそのままにお店を出さないか?という紹介を受け、業務委託という形態があることを初めて知ったんです。僕らが一番懸念していたものは、やはり保証金でしたから、それが200~300万円ということなら、やってみよう。と決心しました。物件を調べると、個室がズラーっと並ぶ一軒家で、何をやっても良いという条件でしたから、当時36歳となった僕としては、夜のメニューを手がけていましたけれども、たくさんのメニューから選ぶということが面倒になっていたので、「信頼しているお店の信頼している料理人から、勝手に料理が出て来る」というお店をやりたい。と思ったんです。

—高級店ではないけれども、落ち着いた年齢層をターゲットにしたわけですか?—
そうですね、どちらかと言うとお家を作りたかったんです。今はちょっと変わっているのですけれど、当初のコンセプトは女将さん主導の古き良き家庭のイメージでした。僕はその時にはすでに結婚し子供もいる家庭を持ち、父の辛さも分かっているころだったんですね。それで「お風呂にします?お食事にします?」みたいなお店があったら良いな。と思ったんですよ(笑)。お風呂の方は、近所の銭湯と提携しようと思って調べたら、法律関係がとても面倒だったのでやめてしまったんですけどね。そこで『家』がコンセプトのお店になったのですが、当然メニューやBGMがあったらおかしいですしね、板前さんというよりは女将さんが全部行っている女将料理にしようと考えたんです。お金をいただくので家庭料理よりはセンスアップして、けれども、板前料理とは異なったものを提供しようと。そこで新宿店でずっと働いていた、僕より15歳くらい年上の女性を説得して女将さんになってもらい、週替わりでメニューを変え、お通しは5~6品という今にも通じているスタイルを作りました。
—そのスタイルで行った結果はどうでしたか?—
お客様が全然来ませんでしたね。ノーゲストの日が続くこともありました。当時の問題点は2つあったんです。1つは、もちろんお客様が来ない事。もう1つは、女将さんに業務が集中しすぎた事です。ランチもやっていたので、早朝から仕込みをやってもらい、ランチ時はホール。ランチが終わると再び仕込みをやってもらい、夜は夜で再びホール。仕込んだものはアルバイトに盛りつけてもらうという形でした。さすがに女将さんが倒れそうになったんですよ(苦笑)。本当に頑張ってもらっていました。しかし、当時設定していた客単価が6,000円だったのですけれど、その単価に見合っているのか?という気持ちと、女将さんに負担をかけすぎている。という面から、これは板前を雇って、もう少し客単価に見合うお料理を出していきたい。と思い半年後くらいに方向転換をしました。板前さんが入った事で、内容は変わらないけれどもお料理の質が上がって、女将さんにも余裕が出来ました。しかしオープンから1年半くらいはお客様に「お店の使い方が分からない。」と言われることが多かったですね。6,000~7,000円の客単価というお店のため、お客様側からしたら5,000円以下でないと普段使い出来ないし、10,000円を越えないと接待で使えないということが原因と分かりました。予約をしないとわざわざ来ないような住宅街という立地だったのも、重なっていたように思います。
でも、ぐるなび等を使用していたので、12月や4月等の宴会シーズンは問い合わせをすごくいただきましたよ。ただ、その内容のうちの大半は5,000円以下でやって欲しいというものでした。僕らの設定している金額では到底5,000円というハードルは超える事が出来ないんですね。しかし、それを「分かりました。5,000円でやります。」と言ってしまえば、全てが台無しになってしまうので、のどから手が出る程欲しかったですが、全てお断りしました。僕らのお店は、お料理が4,500円からになります。そこに飲み物を付ければ、6,000~7,000円になりますよ。という肩書きを、頑なに守っていました。

—その後何がキーポイントとなり、好転したのですか?—
そうですね。その状態が約1年半くらい続いた頃、近隣のオフィスに配っている紙媒体の広告のお話が来たんですね。とにかく近隣のサラリーマンに来てもらわないと、話にならないと思いましたから、載せる事にしたんです。そこで、何か謳い文句があった方が良いのではないか?という話になり、色々考えた結果、牛肉が一番呼べそうだと思ったんですよ。そして客単価はもちろん高いのですが、A5の和牛を特別につけるコースを掲載したら、結構ヒットしたんです。それがきっかけとなって、ちょくちょく通ってくれるリピーターさんも増えていきました。お店を知るきっかけにもなったんですね。1年半やっていても、お店の存在を知られていなかったんですよ。業態上、広告やチラシをうてませんでしたから、ぐるなびにポツンと掲載しているくらいだったんです。来る日も来る日も、待っているだけで、女将さんも一日中着物で玄関に立っているだけという辛い日々でした。

—スタッフの皆さんの想いはどの様なものでしたか?—
スタッフにも辛い想いはさせていましたね。でも、そこで弱音を吐いて信念を曲げると、後が絶対続かないから。と一生懸命説得をしました。女将さんもそれは理解してくれていて、「分かりました。このまま行きましょうよ。」と言ってくれたんです。元々そのラインには賛同してくれていたので、『売上を立てるために5,000円以下で行う』という話は、一度も出なかったんですね。そして、そのきっかけを境に、ランチなどにも来て下さる方が増えて、急に利益が立つ様になり安定してきました。つい先日、7周年を迎えたところで、今は女将さんも2代目になりました。

—そして4店舗目の西新宿『段々屋』さんを展開することになったのですか?—
そうですね。3年程経った頃、まだ新店への意欲はありましたから、次の展開を考えました。3店舗目の時に、物件がどれだけ店に影響を与えるのかが分かりましたから、場所とコストを選ぼうと思い、ずっと待っていたんです。いくつか候補がある中で、ココも違う。ココも違う。と選んでいる中、今の店舗の紹介がいきなり来たんですね。オーナーさんがおばあちゃんなのですが、1店舗目の『一滴八銭屋』の時から挨拶はしていた方で「頑張ってるねー」と言って下さっていたため、不動産屋さんから紹介を受けた際に注目しました。ビル一棟貸しだし、物販をやっていた店舗だったので、飲食への改造はコストがかかると重々承知はしていたのですが、何より一店舗目の目の前でしたからね。滴屋で初めて路面をやってから、やはり路面店で造り上げることをやりたかったんです。西新宿では中々路面は難しいですから。コストのことは考えましたし、改装にどのくらいかかるか分かりませんでしたが、効率の面などから考えても路面はどうしても取りたいと思い、手を挙げました。しかし、如何せん保証金は高いんですね。規模も広く、家賃も高いので当たり前なんですが、確か2,500万円くらいでしたね。これは簡単に払える金額ではない。となり、保証金の償却が2割だったので、この2割分は全部あげるので入れさせてくれないか?と言ったんです。例えば、保証金の意味合いが家賃が入らなかった時の保険などとして扱われるのであれば、その2割分で数ヶ月分の家賃はいきますからね。イレギュラーな交渉にはなりましたが、不動産屋さんにしてみたところ、オーナーのおばあちゃんに聞いてみる。と言ってくれたんです。そうしたら、「良いわよ。しょうがないわねぇ。」と、奇跡的に契約出来たのです。

—それはすごいお話ですね。でも、やはり信頼関係とかが大きかったのでしょうね。—
そうですね。元々がそういった挨拶などの付き合いで長く見ていただいていた方ですし、紹介いただいた不動産屋さんも、この辺の物件を探す時には最初の頃からお願いしていたため十数年お世話になっていましたから。ポッと出ではないことは大きかったかと思います。

—『段々屋』さんは席数もかなり多い店舗となっていますが、営業開始後はいかがでしたか?—

5フロアあり席数は86席あります。現状、金曜日は予約で埋まっています。最初は全てのフロアを開けようとスタッフの人数も多く入れたのですけれど、ランニングコストがかかりすぎて仕方なかったんです。これは考えないといけない。となった時、ただでさえ家賃も高いため、人数を縮小することにし、今日はこのフロアを開ける、今日はこっち。それを超えたら不本意ではあるけれども落とす。と決めて回すようになりました。しかし、このお店もまた、最初は厳しいものでした。ずっと厳しい状態が続き、やっと最近安定してきましたね。ここまで来るのに3年かかりました。

—その状況が変わったきっかけは何だったのですか?—

お恥ずかしい話なのですが、家賃交渉でした。3月の震災を受けて、お客様が来なくなるという騒ぎになった時、もちろん全店舗行ったんですけれど、神楽坂の店舗が一番高かったので、ここを何とかしないと。と思い立ったのです。不動産屋さん相手だったのですが、僕が言っている金額も確かに安いものでしたが、家賃交渉自体が「それは難しい。」の一言でしたね。それでもずっと懲りずに何度も何度も足を運んだら、じゃあ、オーナーのおばあちゃんに聞いてみるよ。と言ってくれ「じゃあ、あの子たちが言うなら、これくらい下げてあげなよ。」と言ってくれたので、そこで売上とトントンくらいになったんです。そしてトントンになったところで、震災からの売上のバウンドが凄かったこともあり、そこから売上が伸び始めてプラスが出始めたんです。だから、きっかけは震災なんですよね。あの時、ちょうど3年目でした。

—『段々屋』さんは串天ぷらとシャンパンがコンセプトということですが、これは当初からのものなんですか?—

そうですね。当初からそのコンセプトで行っております。お客様もそれを求めて来ていただいています。天ぷらをやろうと決めた時に、色々なお店を食べ歩きながら、どのお酒が合うかを調べていたんですね。そして、これは酸味のあるワインが合うな。と一番思ったので、ワイン、中でも白に特化してやろうと決めました。そして、当時はシャンパンの波も来ていたこともあり、『気軽にシャンパン、気軽に天ぷらを』という高いイメージのものを気軽に食べに行ける店造りをしました。まだまだ天ぷらとシャンパンという組み合わせは認知されていませんでしたから、正直、頼まれる方も少なかったです。でも、今になってやっと追いついてきた様に思います。また、立地を考えると、客単価を5,000円超える訳には行きませんでしたから、何度も客単価の調整は行ったところ、最近は女性のお客様も増えてきました。単価調整に関しては、デイリーユースをしてもらいたいという思いは強いのですが、1本100円の串カツと一緒になってはいけませんから、微調整が大変でしたよ。職人が揚げてくれる天ぷらをリーズナブルに楽しめる。というイメージが大切だったので、金額とそぐわない部分などは調整が必要になったんですね。

—串打ちの形態は苦労するとお聞きしますが、いかがですか?—

正直、こんなに苦労するものだとは思いませんでした(苦笑)。串打ちのコストは考えていませんでしたし、時間もかかりますしね。最初は営業の合間を見てやっていましたけど、今では専門のスタッフを入れてますから。本当、大変です(笑)。しかも僕らは、ひと手間加えているものもありますから、例えばサッとお酒で煮てとか、カレー味を付けてなど工夫を加えているんですね。さらに刺す内容も素人が言うもんですから、めちゃくちゃな要求をしてしまってました。どうやって刺すんだ?ってものも多くあって、苦労をかけましたね。僕は串業態は全くの素人だったので、串の形状すら分かっていませんでしたから、こういう形状のものが良いとか硬さが良いとか長さとか、そういうものから一緒に学んでいきました。あまりの串の種類の多さに驚きましたよ。

—先ほど少し触れましたけど、震災の後は何か変化はありましたか?—

そうですね。結局僕らなんだかんだ言って、伝票をつけていても立ち上げの時からドンブリ勘定でしたから、かなりルーズなコスト構造になっていた事に気付いて、例えば電気とか水道とか、人の配置なども含めて、全て見直そうとしました。僕らにとっては、震災はとても大きなターニングポイントにはなり、意識改革に繋がりました。お金が入ってこな可能性がある。ということを初めて考えたんですね。もし1ヶ月間、全然お金が入ってこなかったらどうなるんだ?ということを、僕らの中にしっかり意識づけてくれました。

—現在の低価格・流行を反映させる飲食店に関してのご意見をお聞かせ下さい。—

まず、一番最初に出会ったのが例低価格帯の居酒屋でしたので、最初は本当に驚きました。元々5,000円くらいの客単価で営業していた会社が、同じ店名で急に激安の価格で始めた時は、お客様を裏切った様に感じたんですよ。当時、こういうことをやるんだ…。と僕は批判的だったのを覚えてますし、今でも同じ業態に参入しようとは全く思っていません。しかし、サイゼリアの正垣さんの本を読んで、こういうちゃんと理念のある安いは有りだな。とは思いました。あの人はあの値段でお料理を出す哲学があることが分かったので、一概に今は安いから行かないというのではなく、コンセプトがあって、お客様有りきで考えた数字の結果であるならば安かろうが高かろうが同じだな。という風に意識は変わりましたね。

—今後の会社の方向性や、こうして行きたいという展望などがあればうかがえますか?—

これは本当に難しくて、今までは僕の感覚で作りたい店やこういう店があったら良いと、
自分が行きたい店造りを3年おきくらいに展開してきたのですが、もう13年も経つので中途社員とかが入って来ると「社長は何を目指しているんですか?」とか「この会社のコンセプトは何ですか?」という話は出始めているんです。まさにそれを自身も考えているど真ん中なんですけれども、今、既存であるスタイルで考えていけば、100店舗出していくチェーン展開のような方向か、今の様な個店を少しずつ広げていくという方向に分かれると思います。僕はやっぱり飲食業界においては今の個店のラインを取りたいんですね。ただ、今のままだと、スタッフも歳を取っていくのに地位は上がってこない。やはり究極的には、自分の店を持つことが飲食をやっている意味になると今でも思っているので、彼らにもそういうことをやってもらいたい。先月もちょうど独立していったスタッフがいるんですけれども、それが一番良いと思うのですよね。そして彼らは彼らで、店舗を広げていっても良いし、一店舗でこだわり続けていっても良いし、彼らの考え方で食を通してお客様に貢献しようという形になれば良いですね。でも、今の実情、なかなか上手くいかないものじゃないですか。だから僕らも独立していったスタッフを恐る恐る見ている状態です。逆にこの会社に残ると言ってくれるスタッフもいるわけなので、彼らにどうやって店長以上の地位をあげるのかを考えた時には、やはり業態を作りながら店舗数を上げていくしかないのかな、と思います。例えば、作ってきた業態の中でここならスタッフが変わったとしても、利益もきちんと上げて出来そうだよね。というのがあれば、その業態をあげるから5店舗くらいまで拡げていこう。といった独立採算のアメーバみたいに分裂させていけるかと思います。そしてそれをゆるやかに全体でグループ化していくことを想像しています。本社が直営店をどんどん出していくというスタイルではなく、僕自身が100億のお店を切り盛りするタイプでもなければ、そこに魅力を感じる方でもないので、それだったら同じ考えの者同士が独立採算でやりつつ、情報共有しながらグループとしてやっていけないかな。という風に思っているんです。独立の際は資金面の問題があるから、完全な独立は無理だとしたら、最初は会社で店を作って少しずつ譲っていく。今はその形態を取っている会社さんの話を聞いたりと勉強しています。具体的に何年後というのはまだないのですが、その決断を2~3年のうちにしなければならないと考えています。あと、僕は飲食店を食べ物屋として捉えていないんです。人が集まる場所のひとつとして考えていきたいんです。食べ物や飲み物があって、それをツールとして人が集まりエネルギーを与え合う、エナギーチャージの会社にしていきたいと話しています。時代がこれからどんどんデジタル化していくと思いますが、大昔から人が集まる飲食の場は変わっていないはずなんです。これから全ての物事がデジタル化する時代が来たとしても、人が共有する空間というのはデジタル化出来ないですから、これを僕らは大切にした場所造りをしていきたいと思っています。

—最後に会社のモットーを教えていただけますか。—

最初から「自分達が行きたい店を造る」ということがモットーでした。あと社名にも繋がっているんですけれども、つゆ「一滴」にも「八銭」のお金を貰っていることを忘れないということ。自分達が素人から始めているので、食べ物に対してお金を貰うという恐ろしさがありましたし、その感覚を忘れてはいけないと思って社名にしました。いつでもそこに戻れるように。続けていくにつれて、お客様が求めているものは何だろう?と迷うときがあります。そうなった時「自分が行きたいのは、どんな店だろう?」と、そこに行き着きますし、そこしか判断出来る基準が無いんですよ。だから、モットーとなると「自分達の行きたい店」になります。さらに、最近肉付けをしたのが、先ほど触れた通り、「エネルギーをチャージ出来る店や空間造り」ですね。家庭と職場以外のもう1つの「居場所」を作って行きたいです。

【プロフィール】大薮 由一郎氏

1968年生まれ 愛媛県出身。実家は元々酒屋だったが、父親が脱サラしてバッティングセンターなど色々な業種を手広く行いながら、うどん屋を始める。そんな姿を見て、商売とは苦労はするが、自由に出来るし面白いものだという感覚を覚えた。早稲田大学入学を機会に憧れていた東京へ上京。大学時代は一年間休学し、自分を見つめるための海外放浪を経験。卒業後は内装ディスプレイの会社に就職し7年間の勤務後、弟の言葉をきっかけに独立。現在、西新宿に2店舗、三田に1店舗、神楽坂に1店舗といづれも異なる業態で展開している。

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